窯だより バックナンバー 2023年 1~4月



   

東京都国分寺市の「武蔵国分寺跡資料館」を訪ねた。

それは、この”窯だより”の1月17日にお伝えした

小田原市「千代廃寺」出土瓦に関わってのこと。

どうしても見たいものが其処にある筈なのであった。

1月に奈良時代初頭創建とされる千代廃寺の遺物展示する「小田原市郷土文化館」で見た、

千三百年まえに焼かれた「鬼瓦」には実に興味深い説明があった。

その鬼瓦成形に用いた型は後に武蔵国分寺建設用に移され、

その型で制作したと考えられる全く同形の鬼瓦が

国分寺金堂跡から出土しているというのだ。

その時すぐにでも実見したい衝動にかられながらも機会は無かった。

一昨日たまたま調布までクルマで行く用ができ、武蔵国分寺跡を訪ねたわけである。

館内にの有無を確かめずの訪館だったが、

果たして胎土だけ異なる兄弟鬼瓦は展示されていた。

鬼瓦は寺院跡からの出土だが、焼成したのは

千代廃寺が神奈川県松田町の「からさわ古窯跡群」、

武蔵国分寺が東京都八王子市の「南多摩窯跡群」と判明している。

50km遠隔する両窯の陶工たちの営みを、

千三百年後の僕が目の当たりにしている面白さ、

なんとも愉快な気分で閉館時間の資料館を退出、

黄砂に霞む夕陽が包む美しい国分寺跡を逍遥した。

   

2023.4.15



   

初めて翁草の一番の見頃を味わうことができた。

何が一番なのか、それはオキナグサには2度の盛りがあるから。

タンポポのように花の時期と綿毛の時だ。

翁草の名の由来はこの二つの姿からのもので、

花は老齢を思わせる暗赤紫色の六弁花を腰を曲げ首を垂れるように開き、

花が終わったのち多数の長く延びた種子の集まりを、白髪のように風になびかせる。

この美しい二通りの姿を一度に観賞できることは極めて稀なのだ。

あぁ、こんなラッキーなことがあるなんて、

どうやら今年の春の花世界は、怒涛の勢いで一気に来たらしく、

吊り橋を渡った直ぐ近くでは満開の桜の下で、

チューリップ祭りが開かれていたのである。

 

2023.4.1



   

今年も東京国際フォーラムの「ART FAIR TOKYO」に行ってきた。

古美術から現代美術まで幅広い出展のある日本最大級のアートフェアだ。

見て回るだけでも一日がかり、どのブースも自慢の

最高のモノをご覧あれと熱気で溢れていた。

さて、いつも逸品中の逸品に驚かされる東洋古美術「繭山龍泉堂」、

今年のテーマは「萬暦」だった。

萬暦は中国・明時代末の万暦年間に焼造された景徳鎮官窯だ。

日本では桃山末にあたるが、昔から現代まで日本人に愛され続け

特に近代文化人にその傾向が強い。

志賀直哉の小説「万暦赤絵」もその例だ。

今回の出品は僅か5点で、DMの「五彩三龍山水筆架」は

実見すると小品ながらこちらに迫るものがある。

聞くと洋画家・梅原龍三郎の旧蔵品と言う。

と、ここで横に立つ龍泉堂さんと、あの日の思い出話しとなった。

それは今から17年まえ2006年の夏、

僕は東京目黒の真言宗寺院の御住職から制作を依頼されていた

青磁大花瓶をやっとのことで焼き上げ、作品を納めにお寺を訪ねたのだが、

たまたま龍泉堂さんがその秋に泉屋博古館分館で開催する

「中国陶磁 美を鑑るこころ」展に出品するための所蔵品を拝借に居らした。

それが、「万暦五彩龍鳳文六角瓶」、梅原龍三郎旧蔵の花瓶であった。

御住職は真言宗本山の高野山にて永く要職に就かれた高僧でいながら、

素晴らしい中国古陶磁のコレクターとしても知られる方だった。

当然のことながら2本の花瓶を間に場は盛り上がって話しは尽きず、

3人で近くの中華料理店へ行き食事まで御馳走になったことを懐かしんだ。

その御住職は惜しいことに昨年夏、お亡くなりになられた。

まだお元気であったなら、きっとこの筆架は目黒のお寺に納まったことだろうと、

龍泉堂さんとしみじみ話して、ブースを後にした。

   

2023.3.16



   

根津美術館の企画展「仏具の世界」会期中、2階〈展示室5〉で開催される

『西田コレクション受贈記念Ⅰ・IMARI』の特別内覧会に招かれた。

「西田コレクション」とは根津美術館・顧問を務める西田宏子さんが

蒐集された、東洋・西洋の陶磁器など工芸品。

一昨年、その169件の寄贈を受け、整理・研究を進め、

このたび優品を選りすぐり、テーマごとに3回に分けて紹介することと。

第1回は「IMARI」、九州有田の伊万里焼である。

西田先生は慶応義塾大学 文学部 史学科出身で、卒業後オランダに留学、

その後イギリス・オックスフォード大学で博士号を取得する。

そして次には韓国へも留学した。

1、2回目の留学は日本から17、8世紀に海外に流出した伊万里焼を追って、

3回目の韓国は伊万里焼の根源探索と筋金入りの研究者なのだ。

そう云えば、僕が40年まえ初めて海外の古窯跡を訪ねたのが

韓国 忠清南道 鶏龍山 だったが、その道標としたのが

西田先生の「韓国やきもの案内」であったことを懐かしく思い出した。

   

2023.3.1



   

昨年10月から平日の朝に楽しんでいた韓流時代劇ドラマが2月8日に完結した。

全72話という長編だったが、最近の窯だよりでお話ししていることに

通ずる時代背景だもので、結構ハマっていたのである。

朝鮮三国時代の百済、第25代「武寧王(在位462‐523)」が王となるところから、

子のミョンノン太子が王位を継ぐまでのドラマだ。

上左の番組広告の右端男性がそのミョンノンで、

第26代「聖王(聖明王)在位523-554」となるわけだ。

ここでもう気付かれた方もおられるだろう、

538年に日本の「欽明天皇」に仏典・仏像を献じ、仏教を伝えた聖明王である。

そして、ドラマのラストで番組広告の左から2人目の女性スベクヒャンと結ばれる。

ドラマはここまでだが、じつはこの二人の間に生まれる子が

第27代「威徳王(在位554‐598)」となり、日本へ造寺技術者を送るのである。

派遣された、僧・寺工・瓦工らにより596年に

日本最初の本格的瓦葺き寺院「飛鳥寺(法興寺)」が落慶したのだ。

飛鳥寺は718年、平城京に移されて「元興寺」と称し「ならまち」エリアに現存する。

その日本初の瓦は元興寺本堂の西流れに今も残されている。

下の写真右の不均一な色合いの瓦面がそれで、

昨秋の奈良行で、1400年まえに焼かれた瓦が今、

役割を担いつつ在る姿をしっかり目に収め、感動に浸ったのである。

   

2023.2.15



   

先日、招待券を頂いた熱海MOA美術館へ行き

割と早く観終わったので、前々から気になっていた「起雲閣」を見学した。

かつては名立たる文豪たちに愛され、寛ぎと執筆の場となった名旅館だったが

平成11年に暖簾を下ろし、今は熱海市が熱海を代表する別荘建築として

管理公開、文化イベントなどにも利用されている。

起雲閣は大正期に活躍した海運王・内田信也の別荘として大正8年に建築、

その後、鉄道王・根津嘉一郎が所有し増改築、

日本、中国、欧州の様式が融合する独特な建物となった。

そして、大戦後の昭和22年から旅館として生まれ変わるや

様々な文化人を迎えることとなる。

広大な敷地の緑豊かな庭園を囲む幾棟もの客室は回廊で繋がり、

見学に40分を要したのには驚いたが、

作家たちが逗留した部屋のそれぞれが興味深いものだった。

太宰治が「人間失格」を執筆した別館は失われていたけれど、

その間に当時の愛人の山崎富栄と宿泊した「大鳳の間」は今も残る。

起雲閣で昭和23年3月7日から31日まで執筆した「人間失格」は5月10日に完成。

しかし、間もない6月13日、件の山崎富栄とともに玉川上水に入水、他界した。

起雲閣の滞在から、たった二月半のことである。

   

2023.2.1



   

小田原市東部の千代で7世紀末葉に造営された「千代寺院跡(千代廃寺)」と、

その地で採取された屋根瓦を保存している「小田原市郷土文化館」を訪ねた。

千代廃寺は創建年代の古さと規模の大きさから、

かつては東大寺の伽藍配置を持つ初期国分寺とする説があった遺跡である。

千代寺のことは6年まえ神奈川西部と静岡東部の古代須恵器窯を調べた折、

家から7㎞と近い松田町の酒匂川畔高台に位置する「からさわ古窯跡群」を知り、

幾度も足を運んだがその窯跡は須恵器窯でなく古代瓦を焼成した「瓦窯」で、

酒匂川下流に建設する千代寺院のための窯だったことで、関心が薄れたままとなっていた。

ところが昨秋、奈良・藤原京跡を旅した時に藤原宮が日本初の瓦葺き宮殿であったこと、

建設時に近辺に「瓦窯」を築いてから建築に着手したこと、

完成が694年と7世紀末葉であることに驚いたのだった。

と、すると・・・、妄想は渦を巻く。

藤原宮の瓦工人と、からさわ古窯跡の瓦工人たちは

同族の仲間だった可能性も無きにしも非ずというわけだ。

郷土文化館に展示された千三百年前に焼成された瓦を見ていると、

古代工人たちの活力と生気がそこに漂うのを感じた。

   

2023.1.17





明けましておめでとうございます


令和5年 元旦




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