窯だより バックナンバー 2019年 5~8月
前回ご報告した右眼角膜裂傷剥離は、ご心配お掛けしましたが本日16日の診察にて
先生の「ん~、治癒ねっ」のお言葉のもと完治いたしました。
これも海とか行ったりせず心静かに坐禅なんぞを組んで過ごした賜物でございましょう。
おぉ、それそれ、地元の禅寺での坐禅会のことは以前にもお伝えしましたが、
私めの夏の朝の密かな楽しみなのでございます。
皆さまは朝坐禅というと眠い目を擦りながら夜明けに行う”暁天坐禅”を思いましょうが、
この寺では朝の涼しいうちにね、てなくらいのユルさの開始。
眼に怪我あるものに慈悲深いのであります。
というわけで、座禅堂を意味する「選佛場」の額が掛かる本堂に入り、
文殊菩薩様の後ろを回り、坐禅用座布団「座蒲」へと。
鐘の音と共に線香1本分の時間、精神宇宙に旅立つわけでございます。
ほどよく足が痺れた頃合いに終了の鐘が鳴り渡りますれば、
足を解き擦りヨロヨロと選佛場を退出いたします。
と、そこで柱に掛かる額板を見れば、なんと「放参」の文字!!
これは”本日は坐禅はお休みです”の意味で、板の裏は「坐禅」の文字。
ん??、と、住職にお尋ねすると、「あぁ~裏返すの忘れてたぁ」と。
達磨絵から抜け出たようなゴッツい方丈さんの茶目っ気ある笑顔も、
これまたユルめの修養感が心身を癒すのでありました。
2019.8.16
いやはや、歳ですなぁ。やっとこさ長い梅雨が明けたもんだから、それっ!とばかり植木に雑草の庭仕事を。
家と陶房で汗だくの6日間、以前は4日で終わったのになぁ。
おっと、それじゃない、ご報告するのはケガのことだった。
まったく詰まらない話で、垣根越しの草を抜こうとして細い枯れ枝で右目を突いてしもたのごじゃります。
なんで目の前の小枝が見えないんでしょうねぇ、歳ですわなぁ。
で、眼科へと思ったら日曜日で秦野に休日診療の眼科が無くって、家から1時間かけて相模大野まで、トホホ。
して、クールで腕の良さそうな女医先生に診ていただきました。
ぶ厚いカーテンで仕切られた暗ぁい診察室で、小さな光を眼に当て覗き込む先生、つぶやくように・・。
「あぁ・・、割れてるぅ・・・。あぁ・・、切れてる・・、ん~・・」
「ちょっと、方向変えますねぇ・・・・」
「ん~・・、破れてる・・。あぁ・・、剥がれてるぅ・・・」
「右眼角膜裂傷剥離・・ねぇ・・・、あぁ・・」
『・・・先生ぇ・・、治りますか・・・?』
「ん~・・、でも・・、中はきれいね・・・」
「中に損傷は無いなぁ・・・、打撲も・・無いわねぇ・・・」
「だいじょうぶ、治りますよ、でも、何回か診せてね」
”治りますよ”の ひと言を聞くまでの時間は暗闇の中で、かつて経験のない淀むような重さで流れたのでございます。
さてさて、お歳をめした裸眼の皆さま、くれぐれもご用心あそばせ、
庭仕事するには”伊達メガネ”必須で御座いますぞよ。
2019.8.7
先日、渋谷区立松濤美術館で開催中の『華めく洋食器・大倉陶園100年の歴史と文化』展に行った。
それは、日本の洋食器メーカーの草分けという程度の認識しか持たない僕にとって、まさに驚くことばかりの展覧会だった。
江戸すえ生まれの大倉孫兵衛とその子、和親の父子によって大正8年に創設された大倉陶園は、
それまでの出版を生業として身に付けた”日本の美意識”を世界で通じる洋食器に、という信条をコンセプトに誕生。
そして、「良きが上にも良きものを」の理念のもと生産される磁器は、初期から西洋の名窯にも比肩する高い品質を有し、
装飾には日本ならではの発想や技術がちりばめられていたのである。
技法「金蝕」はエッチング版画技術を、技法「岡染め」はイングレーズ染付技術を、
日本的解釈により大倉陶園独自の技法へと転換したものだし、
技法「漆蒔」は日本伝統の漆蒔絵の技術を陶磁器に応用した秘伝の技。
何たるかな、いやはや、凄い、凄すぎる!、驚かされたわけである。
そして、会場が良かった。
ドイツ哲学とゴシック建築の識者で、哲学的建築家として名高い「白井晟一」設計の松濤美術館は、
洋食器のこの展覧会の舞台として絶妙なマッチングを見せていたのだった。
2019.7.15
前回の町田市立博物館の続きを少しばかり。
あの日は4人ほどで午前早くから博物館を訪問し、退出したのは正午を少し過ぎていた。
どこかでお昼をとなって、隣りまち鶴川にある旧白洲邸「武相荘」のレストランへ向かった。
近いのに電車を使うとえらい遠回りなのだが、今はスマホのタクシーアプリで
近くにいるタクシーを呼んでササッと移動できるのである。
16年ぶりの武相荘は新しい住宅群に取り囲まれて、いささか驚かされたが、
中に入ると敷地内は変わらぬ静かな潤いのある空気に包まれていた。
さて、レストランのランチメニュー、
白洲次郎、正子の生活に深く根差した料理数品とシンプルなものだが、
僕は「親子丼」をいただくことにした。
というのは、ご夫妻が京都への旅行の際かならず出向いていた祇園のうどん屋「権兵衛」、
その店の親子丼をこよなく愛し日本一とまで賞したほどだから、きっと、その味と。
いやいや、正にそのとおり、
何年か前に祇園でお昼に食べた「権兵衛」の親子丼がよみがえったのだった。
ところで、前回の”町田市立博物館閉館”TVニュースのインタビュー、
Facebookにはシェアしたのですが、「Facebookやってないんだけど」というお声にYouTubeをリンクしました。
上記タイトルをクリックしてください。
2019.7.1
東南アジア陶磁コレクションの充実で高名な”町田市立博物館”が45年の歴史に終止符を打つこととなり、
4月下旬より『町田市立博物館最終展-工芸美術の名品-』展が開催されているが、ついに6月16日をもって幕を閉じる。
閑静な丘上の”本町田遺跡”内に位置する佇まいで多くの人々に愛されてきたが、
建物の老朽化、耐震強度不足など、やはり致し方無いのであろう。
僕が丹沢に窯を構えてから一番近い博物館であったし、その素晴らしい蔵品は古陶磁を学ぶ道場でもあった。
時に無理を言ってガラスケースを開けてもらったり、我儘にも作品を手に取らせて頂いたりと、
ずいぶんと本当にお世話になってきたものだ。
気になるのは今後の収蔵品の行方であるが、市によると町田・芹ケ谷公園内の”国際版画美術館”に隣接するかたちで、
博物館のガラスや陶磁器コレクションを中心に展示する「町田市立国際工芸美術館(仮称)」を
2024年度開館にむけて準備中とのこと。
行政主導の博物館移転プロジェクトは少々不安だが、再び同好の士が温顔に集い、
展示作品をまえに熱い論を交わす場となってほしいと切望するばかりである。
さて、そういったことで最終土日はファイナル・イベントがあって落ち着いて”町博”にお別れができまいと、
今日14日に最後の展示風景を脳裏に焼き付けておくため訪館してきました。
ちょうど撮影に来ていた”TOKYO MXテレビ”の取材を受け、閉館を惜しむ思いの丈を語ったところ、
夕方18時のニュースで しっかり放送してくださったのでありました。
2019.6.14
いま、東京駅丸の内北口の”東京ステーションギャラリー”で
『 ルート・ブリュック 蝶の軌跡 』 という ちょっと面白い陶芸展が開かれている。
ルート・ブリュック(1916-1999)は北欧フィンランドを代表する女性アーティストだが、
はじめグラフィックアートを学びイラストレーター、版画家として活動していた。
それが、ドイツ・マイセン、フランス・セーブルと並ぶ名窯アラビアに招かれ陶芸の世界へ。
アラビア製陶所はフィンランドが1917年にロシアから独立するまで主にロシア向けの食器を生産したが、
しかし、そのままの路線では他国の陶産地に対抗できず、長い低迷期を送る。
そうしたのち、陶磁器の新しい展開を模索した「美術部門」を開設することとなり、
そこへ製陶の知識、経験を持たぬ26才のルート・ブリュックを抜擢、専属アーティストとして招聘した。
これが的中!版画の技法を応用して独自の陶芸世界を開発、
味わいのある線と深い色釉を面で見せるアルカイックな印象は、小品から大作まで人々を魅了させた。
作品の評価は1951年のミラノ・トリエンナーレのグランプリ獲得で決定づけられ、
アラビア製陶所で約50年にわたって活躍、フィンランドを代表するアーティストとなったのである。
さあ、ドラマティックで謎めいた「ルート・ブリュック・セラミック・ワールド」を、ぜひ この機会に。
お薦めの展覧会です、フィンランドはムーミンだけでは ありませぬぞ。
2019.6.2
先日終了した横浜髙島屋での「伝統工芸・神奈川展」最終日、夕刻からの撤収作業までを横須賀に遊んだ。
京急線汐入駅を降りると10連休を終えた翌日ということもあるのか、
街は閑散として午後の気怠い日差しに白けきって 僕を迎えた。 横須賀には初めての訪れだった。
夜は賑わうはずの どぶ板通りを暫く歩いて、昼からやっているアメリカン・バーに入ってみた。
そこだけは夜の雰囲気を作っていたものの、ボックスシートで一人グラスを傾ける非番らしき米兵が居るきりだった。
ハンバーガーと ビールを注文して 店の人と話しをすると、
今ね、空母ロナルド・レーガンが寄港してるんですよ、乗組員6000人のね。
だのに 降りて飲みにくるのは ほんのわずかでね、いま時の若い兵隊は上官が誘ってもさ
船ん中でゲームやってる方がいいって言うんですって。
そんな 店員の投げやりな笑みをあとに店を出たが、まだ髙島屋に戻るには早かった。
駅に「軍港めぐり」の宣伝があったのを思い出して、その時間を埋めるべく 乗船して潮風を楽しむことにした。
港に身を寄せる沢山の軍艦の中に、さっきの空母ロナルド・レーガンが ぼんやりと 浮かんでいた。
2019.5.13
令和時代スタート。僕も昭和、平成、令和と3時代を跨いで生きることとなりました。
ひょっとして令和天皇も生前退位が適用されたときには4時代生存も有りかもしれません。
さて、それはさておき、未来現在よりも過去へ遡りがちな僕の脳髄は常に遠い古えの世界に思いを馳せる悪癖があって、
それは まぁ自らの制作の未来への担保、礎ともいえるのです。
じつは前回お話しした箱根行には、ひとつ大きな収穫があったのでございます。
いつも”行帰りの箱根以外の散策”の そのまた寄り道に
伊豆の国市の古代須恵器窯址を探すオプションがついているのです。
しかし過去の発掘調査報告の場所を訪ねても、そのほとんどが
有料道路、工場、住宅の下となって、その片鱗や遺物も確認不能でした。
やっぱ もう無理かなぁ と思うなか、あるヒラメキが浮かびます。
遺跡が現在、米作耕作地ならば、そしてこの時期ならと。
伊豆の国市にある7世紀末から奈良平安時代にかけて須恵器を焼いた古窯址群8ヶ所のうち、
「四反畑窯跡」と「窯の壇遺跡」は現在、水田となっています。
遺跡は昭和31年に発掘調査され、7世紀奈良平安時代の窯址が確認されました。
そののちに水田整理されたとなると、田んぼの底にはまだ遺物が眠っているはずです。
そして毎春この時期にきっと田植えの準備、田起こし作業が行われると。
それが ズバリ的中しました、トラクターで掻揚げられた荒々しい土塊が幾筋にも並び、
遥か昔の土層を陽に晒しています。
旅行用シューズを泥だらけにしながら、目を皿に・・・。
あぁ、やっと出会えた。 須恵器片、土師器片が 其処かしこに・・・。
えッ? 驚いたのは中国南宋時代の青磁片?? なぜ? ふっと 目を上げると、横に古い神社が。
そうか、ここは鎌倉幕府の執権、北条時政邸の狩野川対岸。この神社での神事に使われた器なのだろうか・・・。
夢の余韻を胸に収め、千年の昔から変わらぬであろう夕陽を背に、箱根へ向かったのだった。
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ところで、お知らせを一つ。
photographer 今井 卓 写真展 『 44 portraits 』 が
5/8wed~5/20mon 「リコー イメージング スクエア 新宿」 にて開催
各界44人のポートレート作品に 恥ずかしながら私めも。是非是非ご観覧ください。
2019.5.2
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