窯だより バックナンバー 2012年1〜4月


 

きょう15日は 村の お祭り

テンツク テンツク トントントン

畑の むこうを 神輿がとおる

鎮守の神の 御霊をのせて

オイサ オイサ オイサ オイサ

太鼓と 掛声が 遠ざかる

静寂を 分け入り 神輿が泳ぐ

はるかに遠い 時空を旅して

ツクテン ツクテン オイサ オイサ

田舎の 祭りは いいよなぁ

2012.4.15


3月24,25日の2日間、愛知県陶磁資料館で 『国際シンポジウム・龍泉窯青磁の謎を探る』 が開催されました。

中国から4名、日本から5名の研究者が、最新ホット情報を発表すると聞いていたので、居ても立っても、というのが いつもの調子。

 「行くぞッ、愛陶!!」 夜明けと共に 車に飛び乗り、瀬戸に1泊して まるまる聴講してまいりました。

しかし、だいたい ”謎を探る” ”謎にせまる” 系シンポジウムは、謎が謎を呼び閉幕 というのが通常のパターン。

「わかっちゃいるけど やめられねぇ」が 全国から参加する人たちの、変質的人間タイプかもしれません。

して 今回のテーマは、近年 発掘調査された 龍泉窯で明代初期に宮廷用の青磁を焼成した大窯楓洞岩窯址の発掘成果と、

龍泉窯と官府の関係、そして 生産活動と交易動向。 それは それで ちゃんと発表されました。 がぁ・・

うへへぇ、やっぱ おもしろいねぇ、・・・、こう来たか・・

開会あいさつ があり、シンポの趣旨説明 があり、いよいよ 発表開始。

1人目が 浙江省文物考古研究所・研究員、そしてつづく 2人目が 龍泉青瓷博物館・館長、

中国組の2人の口から出たのは、 「・・ どうも 龍泉に 哥窯 らしき 窯址がある・・・」???

エエッ!?、テーマの大窯楓洞岩窯とは 同じ龍泉内といっても、地区も内容も懸け離れた発表に 会場は・・・!!

ここで 哥窯(かよう)について簡単に説明をしますと、哥窯は中国宋代の五大名窯のひとつとされ、

後世の宮廷コレクションに伝世。 日本にも僅かながら美術館などに入っております。

写真右上の 白っぽい釉と黒い貫入が特徴といえますが、現在のところ窯址は発見されてません。

哥窯という名称が文献に登場するのは ずっと後の明代初期、そのなかのひとつに こう記述されています。

宋のころ、今の龍泉県のあたりに兄弟の陶工がいて それぞれ窯をひらきました、

「哥」とは 兄の意味で、兄が 「哥窯」、 弟は地名をとり「 龍泉窯」と 名付けたそうです。

しかし、文献の哥窯から考える作風と、伝世する哥窯のそれは かならずしも一致せず、

相当 早い時代から 評判の良かった哥窯のコピー製品が登場していたようで、

どれがホンモノやら 何時何処で焼いたのやら、と 皆が首を捻っているわけです。

宮廷コレクションの哥窯さえ 然り、ってな具合で・・。  さぁ 面白くなってきたじゃ あ〜りませんか。

やっぱり 謎が謎を 呼んじゃって・・、  今後 どんな展開が待ち受けているのやら・・?!?!

2012.4.2


おとなり 伊勢原市に、寿雀卵なる 美味しい たまご屋さんがあります。

殺風景な街道沿いに ポツンと建っている工事現場小屋みたいな販売所には、

卵を求めに来た客の車が ひっきりなしに出入りし、たいがい 夕方まえに売り切れ。

土日は 午前中に 「本日完売」 のカンバンが掛けられることもあるほどです。

近隣は もちろん、東京 横浜からの 大山登山、大山詣で、ゴルフ客の人たちの おみやげルートなのだそうで、

湧水工房の大山豆腐、良辨の大山饅頭、寿雀卵 が三種ノ神器らしいのです。

なっとくです、そうなんです、とにかく 美味しいんです。 味、色が 濃いのであります。

黄身は なんと お箸で摘まんで 持ち上げられちゃうんであります。

だが、 しかし、 伊勢原は 我家から車で40分、何か 他の用事がないと わざわざとは いきません。

と なると、僕にとって 伊勢原方面の用事といったら ひとつ だけ。 厚木市にある 陶芸機器の会社です。

ロクロとか 窯とかの トラブル、それも 緊急性の高い、 こまった用事の時。

あー、  美味しい卵 と ひきかえの 憂鬱・・・。

今日、寿雀卵 を 食します、 美味しいです、 幸せです。

ガス窯の バーナーが 壊れたのです、先端の スケルトンという部品。

小さなものですが、これが けっこう 高額なのであります・・・。

先月も、寿雀卵 を 食しました、 美味しかったです、 幸せだったです。

ロクロの ペダルが 付け根から もげた時でした・・・。

トホホ・・・。

2012.3.15


このページを開く方々は、静嘉堂文庫に 一度ならず訪れたことがあるのでは。

旧三菱財閥の二代目、岩崎彌之助と その長男 岩崎小彌太が蒐集したコレクションを展示する その美術館へは 、

僕も 南宋官窯とされる 青磁香炉の素晴しい釉色を確かめに ずいぶん足を運んだものだ。

父、彌之助は 和漢の古書 や 古美術を、小彌太が古陶磁の名器 優品を集めたのであるが、

この息子さん、岩崎小彌太男爵、桁外れな遊び方をする人でも あったようだ。

明治44年、箱根 芦ノ湖 湖畔、10万坪の敷地に 4万5千坪もの大庭園を持つ 別邸を建てる。

招いたゲストともに、敷地内で狩猟をしたり、敷地内のクラブハウス付 プライベート ゴルフ場でプレーを、

芦ノ湖に延ばされた 敷地内の プライベート桟橋からフィッシング、そして ボートを走らせる。

大庭園に植えられたツツジが開花する時期は、湖畔を 赤、白、ピンク と

一面の 花のじゅうたんを敷き詰めたように 咲き誇るなかでの 園遊会。

オー! グレイト!

その別邸の跡地、現在は ツツジで有名なホテルとなっているのだが、

芦ノ湖に浮く桟橋は 今も修繕されながら、その場所に残されるという。

ならば、一度、小彌太男爵の気分で 竿を振ってみるか・・、と 箱根 芦ノ湖へ行った。

早朝の ひととき、桟橋を独り占めして ラインを飛ばす。 無風。

ロッドは 気持ちよく しなり、 心なしか いつもより 遠くへ フライが届く気がした。

75年前、今の僕の歳の小彌太は どんな気分で この桟橋で ロッドを振っていたのだろうか・・・

釣り は、 ひとり で するものだから。

2012.3.3


さて、前回の続き 韓国・古窯址の お話しです。

ソウル近郊の 3市・9ヶ所に行ったのですが、ちょっと意外なものに出会いました。

それは 高麗時代9〜11世紀に稼動した 高麗白磁の窯址で、2001〜6年に発掘調査された所です。

その日は まず 情報収集のため その地の遺跡博物館に立ち寄りました、

発掘から まだそれほど経っていないので 新鮮な情報が期待できるからです。

入館すると 案の定 1階ロビーに いきなり1m四方のガラスケース、無造作に入れられた陶片の山が お出迎えです。

どれどれ、ふむふむ、こういったものが出たのかぁ、青磁と白磁が半々ぐらいかぁ・・、ん?、・・、カイラギ??・・?

カイラギ とは 日本で国宝にもなっている”井戸茶碗”の特徴で、腰下部の うわぐすりが

ワサビおろし の鮫皮のように ツブツブ状になっているもののこと。 なぜか井戸茶碗以外にはありません。

・・・、まさか ね、 釉が ちぢれたのが たまたま混じってんだろう・・、と 博物館をあとに 窯址に向かったのであります。

何時ものごとく 迷いに迷って 行ったり来たり、やっとこさ窯址に到着。 すばらしい景色です。

大きく ひらけた山の中腹は、窯積みに使った匣鉢で一面埋め尽くされいます。

申し訳ない気持ちで その上をガサゴソと登れば、横には 長さ50mを越す窯が 千年の時と共に ゆったり横たわります。

振り返ると 山里が 静かに広がり、 そして 足元に目をやれば、 白磁 青磁のカケラ・・、

匣鉢に溶着した碗・・・、と、・・えっ? ・・カイラギ? ・・・!?

         

近年の研究で 井戸茶碗は 李朝時代15・16世紀に 半島南部で焼かれた 粗質白磁であると 結論づけられてるようです。

しかし、カイラギの釉薬は 多くの謎を残したまま。 祭器だったのでは? 龍の鱗をあらわすのでは? 意味も、系譜も 又・・。

それにしても ここに散らばる一群の 意味するものとは・・・?

高麗時代の 遺物、伝世品に このようなものを 見たことがありません。

博物館によると 昨年、発掘出土報告展が あったのですが、図録は作られなかったそうです。

手近の数片を そっと集めて 写真を1枚、そして 元に戻す。  ふぅ―・・、大きく 深呼吸を ひとつ して・・

井戸茶碗 に 繋ぐには 時代も場所も 遠く離れた、この窯址の 陶片たちに 別れを告げ、

ゆっくり と 山を下ったのでした。

2012.2.14 


ソウルで暮らす 我が娘を訪ね、5日間 韓国に遊んだ。

会いに行ったと いうより、通訳として道連れに ソウル近郊の 古窯址を巡ったのである。

ソウルの冬は寒い とは聞いてはいたが、なるほど 毎日 気温はマイナスの世界、朝は−9℃。

それでも 滞在した間は 暖かい方だという。

僕は ホテルを出たとたん 「顔、痛ッテ−! 耳、凍るゥ〜!」 てな具合だが・・・・。

今回は、近郊 3市 9ヶ所の 古窯址に行った。

たどり着くまで、やれ あっちだ それ こっちだ と、いつものごとく 野次喜多道中だが、

行きたかった 目的の場所は 全て 果たすことができた。

旅行の前に 降ったという雪は ほぼ消えていたし、日本に戻った翌日のソウルは 雪で−19℃。

これは 相当 ラッキー だった訳である。

朝から 1日中 山中の窯址を 訪ね歩き、ソウルに戻れば もう暗い。

夜の街を ぶらぶらして、暖かい店で、熱くて辛いものを 頬張りながら、呑むマッコリ。

これぞ 至福、なので あります。

あ−、つい 長くなりました。 古窯址のことは、次回と いたします。

おもしろい もの、見たんです・・・・。??

2012.2.2


こちら 丹沢山中は 痺れるような寒さの毎日です。

寒ノ入りから まだ10日余り、大寒の終りまで 20日も残すわけで 寒いのが あたり前、その方が 自然なのである。

仕事場の暖は 30年近く使い続ける おいぼれダルマストーブ、あちこち 穴だらけだが まだまだ現役です。

燃し木は 以前の杉の間伐材が 一昨年の植樹祭で 消滅、

今は 鎌倉彫り木地師の友人から 端材を頂戴して凌いでおります。

写真が それ、お盆を挽いたミミ、桂の木なのだそうで よく燃えて じつに暖かいんである。 有りがたいのである。

しかし、彼によると 漆器業界は とんでもない冷え込みようで、大変なのだそうだ。

だから、次は いつ持って来れるか わからない という。

木地の仕事が減ったぶん その時間で 自身の塗りによる作品を 制作 発表もしているのですが、

彼は 本業を 木地師 として、胸を張ります。

マキを 手渡しながら話す 漆器への憧憬 後継者の心配・・・、

伝統的な工芸の世界に身を置く つくり手には、”後は野となれ山となれ” タイプと、

”立つ鳥跡を濁さず” タイプ がいますが、彼は 後者そのもの。

技術の伝承 という、清らかな湖水を のちの若鳥に渡せるよう 思いを募らせます。

僕より 年長の彼は、その一門の最後の弟子なのだそうで、

師は 疾うに亡くなり 近ごろでは 同世代の訃報に接することに 心を痛めます。

ものづくり の道を しっかり歩む 彼の言葉は、もう それだけで 気持ちが暖まるのでした。

2012.1.16


賀正

龍泉・金村窯 民国時代 径20cm    (龍泉窯では民国時代に青花も焼造)

本年も どうぞ宜しく お願いいたします

平成24年 元旦  克童


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