窯だより バックナンバー 2014年 9〜12月


今年も いよいよ 終ろうとしています。

歳を重ねるほどに 時間の流れは高速化するようで、もう 1年なんて あっという間。

やり残しの山に 目をつぶって 新年を迎えるというのが 近年のパターンなわけです。

が、しかし こんな繰り返しでは 初夢の夢見も悪かろうから、せめて 懸案の調べものくらいは年内に片付けようと、

先日 忘年会の予定に合わせ、国立国会図書館に出かけたのでした。

最近は 国会図書館の収蔵図書資料の多くはデジタル化され、全国どこでもインターネット端末での閲覧可能。

なのですが、今回の必要な資料は館内閲覧申し込み図書。 で、行ったわけです。

それが、それがです、なんと あろうことか その書物、傷みがひどいため 現在修復中と・・!!

あっちゃ〜・・! やれやれ・・、たまに やる気を出すと こんなもの・・。

そして そのあと忘年会へ。 わいわい飲みながら この話しをしたらです、

「え〜、なんだぁ〜、その本なら うちの博物館に ありますよぉ〜〜」 と、学芸員さん。

なぬっ、 「 えぇ〜〜、早く 言ってよぉ〜〜〜 」 と、今年も 終了いたす次第でございますぅ・・。

とにかく まぁ、 皆さま、本年中 たいへんお世話になりましたです、

来たる年も どうぞ よろしく お願い申し上げます。

2014.12.30


東洋陶磁学会の今年度大会が、12月6・7日、東京・日比谷図書文化館 で開催された。

今回のテーマは 『 ”陶磁の道” 研究半世紀の歩みと展望  』。 ちと 解かりにくいが、趣旨は

「 1987年に没した 考古学者 東洋史学者 三上次男 博士が、中世の東西交易路の海上ルートを”陶磁の道”と呼ぶのが

相応しいと提唱し始めて 半世紀となるのに ちなみ、関連研究史と課題・展望を確認する」  と いうもの。

ありゃ? もっと 解かりにくくなっちゃったぁ?  ま、簡単に いうと、

誰もが知る 『シルクロード』、東西の貿易路であるとともに 文化交流の道でもあった、あの”絹の道” は一本では ない。

シルクロード のイメージは、ラクダの隊商が 砂漠を行く キャラバンルート 「オアシスの道」 だが、 他に 北方の山麓を繋ぐ 「草原の道」 、

そして 南シナ海、インド洋、アラビア海、ペルシャ湾 などの 海路による帆船ルート 「海上の道」 が あった。

三上次男は、その 「海上の道」に位置する 港湾・都市遺跡に赴き 調査し、出土する大量の陶磁器、陶磁片を 研究。

1969年に、名著 「陶磁の道」 を著した。 しかして著作の末に こう記す、この道は ”絹の道” より ”陶磁の道” が 相応しいと。

それから およそ半世紀、三上次男の考察は 陶磁史研究において重要なところとなり、「貿易陶磁史」という分野も確立された。

研究方法も 陸上遺跡発掘は もとより、潜水技術向上により 水中考古学も進み、沈没船遺跡の新発見が相次ぐ 刺激的な世界となっている。

だが、そこには ”ワル物”も登場、民間サルベージの 宝探し ”トレジャー・ハンター”が暗躍。

引き揚げた古陶磁を 世界各地のオークションで 超高額売買、それを阻止せんとする公的機関、

その 引き揚げ品の研究的価値の有無 など々、ん〜 ねぇ・・。

かなり ヤバイ、海版インディージョーンズ? なんて・・・。

しかし、でも、今大会の2日間、委員長挨拶、記念講演から始まり 7名の研究発表、

充実していて 大会に相応しい内容、とても楽しい2日間だった。

2014.12.14


読書家である友人の、蔵書で溢れた本棚整理に一役買い「回想の浅川兄弟」を無期限拝借、仕事合い間に ぽつぽつと楽しんでいる。

”浅川兄弟”と聞いても、ちょっとマイナーだから 知らない人も多いだろうが、美術工芸の一分野 『民芸』 の祖と云える人たちだ。

大正末から昭和初期に民芸運動を提唱して「日本民藝館」を設立した 柳 宗悦や、民芸陶器で人間国宝となった 益子の濱田庄司らに

”民衆の生活の中から生まれた素朴な美”へ 眼を開かせたのが 浅川兄弟だったのである。

大正初年、兄・伯教のりたかは教員、弟・巧たくみは林業技師として朝鮮に渡り、朝鮮の人々とともに 朝鮮のために働くなか、

彼の地において 過去のものとして忘れ去られ 打ち捨てられようとしていた、美しき”李朝工芸”と出会う。

そんな折、大正3年 一時帰国の際、彫刻家志望で 文芸美術雑誌『白樺』の愛読者だった伯教が、

「白樺」の創刊者であり ロダンの彫刻作品を所有する 柳 宗悦宅を訪問、

土産として持参したのが 写真左の高さ13センチほどの李朝「染付草花文面取壺」だった。

柳は その小さな壺の 素朴で健康な美しさに感動、”用と美”の民衆的工芸芸術として『民芸』と造語。

その後 日本及び世界各地に埋もれつつある、名も無き工人が作る芸術作品を収集することになり、

またそれに 濱田庄司ら工芸作家たちが触発され、民芸運動は一大ムーブメントとなったのである。

浅川兄弟も 李朝工芸の調査 研究 収集を進め、10年後の1924年、柳の協力を得て京城に「朝鮮民族美術館」を設立した。

弟・巧は1931年、朝鮮の人々に愛されながら41歳の若さで病没、朝鮮の土となって 今もソウル郊外の忘憂里に眠る。

その生き様は 日韓合作映画作品『道・白磁の人』として制作され一昨年6月公開。この”窯だより”でもお知らせした。

一方、兄・伯教は終戦後 33年間を過ごした朝鮮を離れ日本に戻り、

李朝陶器研究の執筆、講演、そして作陶を晩年まで続け、1964年 80歳の生涯を閉じている。

さてさて、じつは 僕にとっても 浅川兄弟には 深い思いがあるのだ。

東京杉並で 陶芸とは まったく無縁の環境で育ちながら、なぜ この道に入ったか。

それは まだ 克童でなく 悪童時代の話。

高校に通う私鉄電車を 逆方向に乗った僕は、あても無く 時間潰しに入った「日本民藝館」で 不思議なものに出会う。

どこの何という陶磁器か知りもしないが、その器の前に居ると、

とにかく なにか 妙に懐かしくて・・、そして とにかく とっても優しくて・・ ??

こういう ものが 世の中に あるんだ・・

 こんな ものを 作ったひとが いるんだ・・

こういう ものが 作れたら・・ いいだろうなぁ・・

と。

それが 浅川兄弟の寄贈した 李朝の器と知ったのは ずいぶんと、何年も あとのことだったけれど。

2014.12.2


速報  : 去る 11月17日に放送された TBS月曜ゴールデン浅見光彦シリーズ『壺霊』が、インターネット配信されています。

お見逃しされた方は、《 ここ 》 をクリックして ご覧いただけます。

 しばらくすると 消去されますので、お早めにね。

2014.11.20


読まず嫌いをしていた トルストイを読んだ。

先日、いつもの如く 聞くとはなしにラジオを点けて仕事をしていると、

「次の曲は 弦楽四重奏で クロイツェル・ソナタを」 と、・・?? あれ? 

ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタは ヴァイオリンとピアノのはず・・、  始まると まったく別の曲だった。

曲後の解説で 分かったが、それは チェコの作曲家 ヤナーチェクの作品、

なぜ 同名の曲かというと、そこには こんな連鎖があるのだった。

「クロイツェル・ソナタ」は ベートーヴェンの1803年の作品だが、のちに ロシアの作家 トルストイが、

この曲の持つ魅力を巧みに取り入れた中篇小説「クロイツェル・ソナタ」を1890年に執筆。

そして、この小説に感動した ヤナーチェクが触発され1923年、 弦楽四重奏曲「クロイツェル・ソナタ」を作曲したのである。

つまり、3つの クロイツェル・ソナタが 存在するのだった。 音楽、文学を合わせてだが。

そういえば、近代批評の 故 小林秀雄も 作品「骨董」のなかで、トルストイとベートーヴェンのクロイツェルを論じている。

音楽も愛した 小林秀雄は、鎌倉の自宅では いつもレコードの音が流れ、幅広く聞くなかでも ヴァイオリンを特に好み、

米国のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューヒンのクロイツェルを第一としていたらしい。

晩年、亡くなる二月まえ、昭和57年12月末、テレビでメニューヒンの演奏会が放送された時も、

2階寝室のベッドに横になっていた小林秀雄は 階下から聞こえるクロイツェルに じっと耳を澄ましていたそうである。

さて、トルストイの小説クロイツェルとは。   

夜行列車に乗り合わせた人たちの 会話で構成される物語り。

情夫を かばう妻を 嫉妬から刺し殺した主人公が、列車に同席した人に 過去を告白するという内容だが、

妻のピアノ、情夫のヴァイオリンによる クロイツェル演奏が描かれ、主人公にトルストイの ベートーヴェン・クロイツェル観を語らせる。

「二人は ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを演奏したのです。 あの 最初の プレストをご存じですか?ご存じでしょう?!」

「ああ!・・ あの ソナタは 恐ろしい作品ですね。・・・」

トルストイの クロイツェルは、恋愛、結婚、と 性欲 を題材とした、重く 暗い話しで、僕には ちょっと苦手・・。

ただ、読後に聞いた メニューヒンの クロイツェル・ソナタは、 まえよりも 美しく、恐ろしかった。

そして、まえにも増して、「クロイツェル・ソナタ」が 好きになったのであった。

2014.11.15

PS  : ところで 前回 お知らせした、克童窯ロケの”TBS月曜ゴールデン・浅見光彦シリーズ『壺霊』”の

放映が いよいよ あさって17日(月)の夜9:00から、観てくださいねぇ〜〜


エライこってす。 熊です、クマさんが出よりましたんです。

TVでは、今年は団栗などが不作のため 各地で出没との情報が流れていましたが・・・、

まさか・・、この辺もぉ? まいったなぁ・・・。

それもです、みなさん、出たとこが ここより1キロ以上も街へ下ったところでっせぇ・・・。

お目当ては 柿の実だったらしいんですが、

その場所へ熊が何処から来たか考えてみると、ゾッとしますよねぇ。

だって、駅の方から街を歩いて来るわけ、ないんだから。

つまりぃ、山から この辺りをテクテクとぉ? うへッ、怖ッ !!

とにかく 毎日、仕事を終えて 暗くなってから家に戻る 山道は、

熊鈴を 目一杯 ふりまわしながらの ひと冬になりそうです。

なぜって、丹沢のクマは 冬眠しないんだってから! とほほ・・・。

丹沢って 熊にとっては暖かなんだとぉ! ん、もう〜ッ!!

と、まぁ、話しは変わって。

今年の初めに この”窯だより”にて、TVロケの様子をお伝えした、

TBS月曜ゴールデン・浅見光彦シリーズ「壺霊」が、なんと10ヶ月も経って放映日が決定しました。

11月17日(月) 夜9:00からの2時間です。

克童窯でのロケは3日間、登り窯の窯焚きシーンもあって、窯場シーンが盛り沢山、 の はず・・

ぜひ ぜひ、ご覧くださいねぇ〜

2014.11.1


古美術店の老舗中の老舗、京橋「繭山龍泉堂」で、中国・宋時代の陶磁器を100点近くを集めての展示会、

『 SONG CERAMICS・宋磁 』展が、今日 10月16日(木)〜25日(土)に開催される。

それに 先がけての内覧会に 招待いただき、おととい 久々に宋磁の名品を、思う存分 鑑賞してきた。

近年は 古美術系のアート・フェアなどに行っても、清時代の作ばかりで、些か食傷気味だったとこで、

宋磁などは、日本から海外へ流出することはあっても、新たに招来されるなど無理な話と なかば諦めていたのだった。

 しかし である、招待状と共に届いた 展覧会図録を見て 思わず のけぞった。・・!

点数も多いが、それ以上に その内容である。

龍泉堂の人が ここ2,3年 頻繁に欧米通いしているのを知ってはいたが、

おぉ〜、まさか これ程の名品を 集めていたとは、 驚き 桃ノ木 山椒の木!! スゴイッ !!

だって、だって、ほぼ全ての作品が、コレクション来歴、展覧会出品歴が明記され、それも超一流。

ん〜・・、よくぞ 口説き落とし、買い付けたものぞ・・・

図録の後付けに 「繭山龍泉堂では、創業以来109年に渡り、中国鑑賞美術を扱ってまいりました。・・中略・・

長きにわたり中国美術を生業としてきた弊社の責務と考え、ここに宋のやきものの展覧を行う運びと致しました。」 と、ある。

さてさて、内覧で 大部分の作品が売約されていたが、聞くところ 幸い 日本のコレクターだそうで、一安心。

ならば、また、いつか どこかの 展覧会で 会うこともあろうから。

しっかし、皆さん、こんな機会 そうそうあるものでは ございません!!

日頃、敷居が高くて 入口の扉にさえ手を触れられぬ、超高級古美術店で、滅多に拝めぬ 中国・宋代の名品の数々を鑑賞。

入場は無料、ぜひぜひ お勧めなので ございます。

2014.10.16


山 全体 ススキである。

ちょうど 去年の今頃、用事で東京へ出たとき、どこの駅だったか ホームに

海を眼下に臨む ススキの大群生のポスターが張られていた。

「海すすき」 と 毛筆体で ロゴが入り、場所は伊豆稲取とあった。

ふ〜ん、伊豆に こんな ススキヶ原が あったのかぁ・・

行ってみたいけど、伊豆に行くのは たいてい夏だしなぁ・・・、と 諦めていた。 が、

今年は 夏に いろいろな事が重なり、かなり遅い夏休みとなって

幸運にも この 稲取 細野高原に立つことが叶ったのだった。

それも、”秋の すすきイベント”が始る 3日まえの、人っ子一人いない夕暮れに。

もう、すっかり忘れていた「海すすき」。

前日 下田駅で見かけたポスターで 思い出した 予定外のプレゼントだった。

『 まだ見ぬ絶景 海すすき 黄金の海原 』

今年のポスタ−には、こんなフレーズが書かれていた。

そう、 まさに 絶景。

遠くに 大島が まるで 空に浮ぶように 見えている。

標高 822メートルの 三筋山 山頂から広がる 「海すすき」 は、面積125ヘクタール、

東京ドーム 26個分、箱根 仙石原の有名なススキヶ原の、なんと6倍の広さなのだそうである。

2014.10.1


9月8日の十五夜は あいにくの雨降りだったが、翌9日の「スーパームーン」は 間断こそあれ 雲間に顔を出してくれた。

写真が それである。スーパームーンは月が地球の周りを楕円軌道で回っているため生ずる現象で、

月と地球が 再接近した時の満月だ。 だから、とにかく 大きい、そして 明るい。

そこで その時、胸を よぎったのが、京都の 月だった。

京都は いつ行っても 月が大きいなぁ、と 思うのだけど

一度 見てみたいと 心に懸けながら 実現できずにいるのがいるのが 、嵯峨の 広沢池の月。

なぜって、西行が こんな歌を 詠んでいるから・・・

『  宿しもつ 月の光の雄々しさは いかに云えども 広沢の池 』

月光の持つ 雄々しさだったら 何んと言っても 広沢の池に まさるものは無いなぁ ” 、と。

西行に月を詠み込んだ 歌は多いし、他の歌人も しかり。

だが 大概は 月に 心情、情感を託して、哀愁、恋心、厭世、郷愁 などを謳う姿である。

だが、この歌は ストレートに 月光、月影 を 詠じていると言っていい。 

そういう 月が、広沢の池 に 昇るという。  見てみたいで ないか。

しかも、 それを・・、スーパームーン の夜に・・・。

広沢池は 周囲 約1.3キロ。 京都の一番大きい池で、洛西 北嵯峨の 大覚寺から東へ1キロ程。

北に 遍照寺山を 堂々と置き、平安の昔から 観月の名所とされた。

今だって バスの便も無い辺鄙さだから、往時 平安の月を偲ぶことが 叶いそうな ロケーションなのである。

2014.9.14


東京ステーションギャラリー の 「泥象・鈴木 治の世界」展に行った。

鈴木 治 と聞いて 一般的には ピンと来ない人も多いであろうが、

戦後の日本の陶芸界において、いわゆる”前衛””オブジェ”の制作で一世を風靡した

京都の作陶家集団「走泥社」を、八木一夫、山田 光らと結成、牽引した 言わば現代陶芸の草分けである。

大正15年生まれで 僕の親世代だが、2001年に74歳で逝去している。

その亡くなる2年前、1999年に大規模な回顧展を 東京国立近代美術館工芸館を皮切りに 全国5会場で開催。

一作家の完成形とも見える 充実した内容に圧倒されたものだった。

しかし、制作の歩みを止めぬ 鈴木 治は、その時点で そこまでを ひと区切りとし、

新たな展開で 翌2000年に個展開催を予定した。 発表されたタイトルは 『蘖』(ひこばえ)展。

それは・・、いかなるモノか・・・?

だが、何が あったのか、陶芸界の皆が期待するなか、鈴木 治は 開催の1年延期を宣言。

そして その 準備中に帰らぬ人と なってしまったのだった。

今回の 没後 初の大回顧展には、初期作品から この『蘖』シリーズまでを 一堂に出品された。

氏が 自らの足跡を語った、『〈使う陶〉から〈観る陶〉へ、〈観る陶〉から〈詠む陶〉へ』の フレーズを副題とし、

空襲に焼かれながらも生き残った、重厚な東京駅 赤レンガ空間 「東京ステーションギャラリー」で、

僕は 15年間の 謎を解かんと、行きつ戻りつ 会場内を彷徨したのだった。

2014.9.2



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2014年 5〜8月