窯だより バックナンバー 2016年 9~12


いよいよ大晦日、平成28年も幕を下ろします。

いや~、それにしても今年の暮れは てんやわんやでした。

年の瀬押し詰まっての登り窯の窯焚きと相成った次第なのであります。

12月半ばからは夜なべで釉掛け窯積みの毎日、年末恒例行事は全てパス、

毎年 Xmasメールを交換してる方たちには心配をおかけしたかもしれませんが、ま、そういうことで ご勘弁を。

ところで、今回のような年末の窯焚きを、修業地の萩では「留め窯」と呼んでいました。

窯出しが年を越して翌年になるわけですから、”留め置く窯”という意味です。

年を新ためての お正月休み明けの窯だしは、窯神様からの お年玉があるかも、

思い及ばぬ素晴らしい作品を期待しちゃうのであります。

さてさて、皆様には本年中 いろいろと大変お世話になりました。

来年も どうぞよろしくお願いいたします。

良いお年をお迎えください。

2016.12.31


絶対に見逃せない必見中の必見といえる展覧会が、12月10日から「大阪市立東洋陶磁美術館」で始まった。

タイトルは ちと長い、特別展『台北國立故宮博物院北宋汝窯青磁水仙盆』 だ。

そして、展覧会ポスター&チラシのキャッチコピーが奮っている、「人類史上最高のやきもの海外初公開、初来日。」 と。

むぅ~、そこまで言っちゃいますか、でも そう そのとうり、夢のような企画なのである。

門外不出とされてきた 中華民国台湾の台北故宮所蔵の”汝窯水仙盆” 全部が 日本にやって来たのだ。

汝窯青磁水仙盆は、中国の北京と上海の中間ぐらいに位置する河南省開封の近郊で北宋時代(960~1127)

皇帝の命のもと宮廷用の青磁器を焼造する官窯”汝窯”で産した器だが、伝世する数は極めて少なく日本の1点、台湾の4点が知られている。

水仙盆は宋以降の皇帝に愛され続けて、清朝6代皇帝「乾隆帝 (1711~99)」は とりわけこの器を賞玩した、底裏に自ら詠んだ詩を刻ませているほどに。

ただし、水仙盆という優雅な名称は 20世紀になってから付けられたものらしく、北宋当時の用途は不明だそうだ。

清朝時代には 「猫食盆」(猫の餌入れ)、「か食盆」(チンの餌入れ)」 と認識されていて、

乾隆帝も そう使っていたというから、なんとも 可笑しくも不思議な器でもある。

「故宮博物院」は現在、北京と台北に同名のものがあるが起源は同じ、

分裂した2国の博物院は中国内のスッタモンダ、ゴタゴタの内戦に起因するが、それはさておき、所蔵品貸出しの渋さも どちらも同じ。

そんなこんなで、現存青磁水仙盆の日本での揃い踏みは奇跡の展覧といえるのである。

来年 3月26日までの会期中には関連イベントとして、「記念講演会」、「記念講座」、「館長講演会」、

「記念公開講座」、「連続講座3回」 が予定され、そこでの最新研究情報が気になるところ。

ところがです、なんと私め、来春の大阪高島屋での個展作品制作で 現在、にっちもさっちも状態。

個展会期が 3月15日~21日なので、途中に会場を脱け出して・・・、と企んでいるのであります。

2016.12.16


        

”日本食文化検定”を運営する「社団法人日本食文化協会」が年一回顕彰している ”日本食文化賞”の『伝統工芸賞』に選出され、

11月22日の夕刻より「綱町三井倶楽部」で行われた表彰式典に、夫婦で招かれて受賞の誉れを賜った。

日本食文化協会は、旧朝香宮家当主で 東京庭園美術館館長の浅香誠彦氏を最高顧問に、

和食料理界の大御所たちが名を連ねる 日本の食文化全般を啓蒙する団体である。

僕は今まで公募展での受賞は幸運なことに幾度か経験しているが、それらは言わば応募作品の中の”点”の評価であって、

今回の賞のような 永年の作陶内容を対象とした ”線” の評価としての授与顕彰は、一陶工として誠に感慨深く 嬉しいことであった。

ところで 受賞の喜びのほか、その日 もう一つ感動したのが会場の「綱町三井倶楽部」だ。

綱町は古い地名、現在は港区三田で麻布十番駅から数分の高台に在り、三井家の迎賓館として大正2年に建てられたものである。

鹿鳴館の設計者として知られる ジョサイア・コンドル博士の設計による 西洋社交場建築の傑作だそうだ。

入館には厳しいドレスコードもあって いささか緊張したが、足を踏み入れると豪華な家具調度品、

ロダン、ターナーなど逸品揃いの美術品が飾られた贅沢で重厚感溢れる空間は まさに別世界。

本館を抜けて 庭園に出ると、照明を受けた噴水が 軽やかな水音を奏でていた。

その西洋庭園の先を下ると、6000坪という広大な日本庭園があるらしいが、

冬の陽は短く、静かな闇の底に拡がる世界を想像するだけであった。

そちらは次の機会にね、と言ってみたものの、此処に入れることなど まず もう無かろうと 妻と笑った。

2016.11.30


先週土曜、当地で旧知の彫刻家、西巻一彦さんの出版記念パーティーに参会した。

西巻さんとは 僕が丹沢に窯を築いて2度目の窯出しに御夫婦でみえられてからだから もう 30年の お付き合いになるが、

お会いするのは展覧会の時くらいで、互いの工房が近い時期も長かったにもかかわらず、

仕事への集中を気遣った造り手同士の交流は「淡きこと水の如し」的良い関係である。

そんな彼の彫刻は石を素材とする石彫だが、あの硬くて冷たい石から どうしてこんなに

ほのぼのとして心温まる作品を生み出せるのかと感心させられる作風なのだ。

彫刻展での受賞も多く、作品は「美ヶ原高原美術館」などの美術館に収まるが、

身近には駅や公園、病院など あちこちにパブリックモニュメント作品が設置され、街行く人たちの乾いた心をそっと癒している。

さて、今回の出版記念パーティー。

彫刻家が出版するといえば作品集か芸術観、彫刻論と思われようが、じつは深刻かつ凄絶な体験から書き下ろされたものであった。

現在56歳の彼は5年前、51歳で血液がん悪性リンパ腫を患う。

発症時すでに骨髄以外の全身に拡がっていて、抗がん剤治療と強烈な副作用との半年におよぶ闘いの日々を送った。

だが、本人の前向きな頑張りと家族の支えに みごと生還、病後の作品は一段と慈愛に満ちるものに変化したのであった。

あれから5年、再発の不安も薄れ、そろそろ病も帳消しかと皆思った。

僕も ここしばらく会っていなかったし、共通の友人らからも彼の話題は無かった。

そんな頃、ひと月程まえ、ポストに入った出版記念パーティー案内状の封を切って絶句した。

「・・・今年5月に突然私を襲った急性心筋梗塞。心肺停止からの生還でした。・・」

え? マジかよ、今度は、心臓??

書名は 『 紡ぐ 』 。

「2つの大病で傷ついた身体と心の糸を一つ一つより直し、新たな自分を紡ぐ私がここにいる。」 と。

パーティー会場へは、彼の やつれた姿を勝手の想像して足が重かったが、

到着して受付に並び会場内を見やれば、会場一杯の100人くらいの参席者に囲まれた西巻さんは健康者そのもの。

偉丈夫然と立ち、もうグラス片手に 顔を赤くして満面の笑みをたたえているのであった。

まったく、心配かけやがって。 三途の川を2度もパドルしてくるなんて、あぁ、まずは 生還おめでとう!

2016.11.16


京橋の古美術店「繭山龍泉堂」で開催された”秋の展観”に行った。

創業110年を機に始まった展観も本年で3回目を迎えるが、今回は『嘉靖萬暦かせいばんれき』展と題し、

中国の明時代 嘉靖(1522-66) 萬暦(1573-1620) 年間の官窯を中心に構成されていた。

昨年の『俑よう』展、一昨年の『宋そう』展も同様だが、皆その度の展観に向け数年間をかけて集めた作品と、

永く店奥深く収められていた秘蔵の作品を併せた魅力に富む逸品揃い、気が付けば2時間以上も店内にお邪魔していた。

そして、その中でも溜息が出るような1点、「五彩龍文尊式瓶ごさいりゅうもんそんしきへい」は離れ難い霊気を放っていたのである。

聞くと、日本画家・山口蓬春ほうしゅんの作品「萬暦五彩花卉龍文方尊ばんれきごさいかきりゅうもんほうそん」の画題となった瓶ということだった。

帰宅後、ずいぶん前にその絵を観た展覧会チラシを取って置いたはずと探し出したのが写真右側。

平成20年早春に神奈川県葉山町の「山口蓬春記念館」で開催された展覧会のもので左下がその絵である、

写真左側が今回出展の瓶、なるほど形体はデフォルメしながらも酷似し図柄配置も寸分違わぬようだ、

と、なると 山口蓬春の旧蔵品ということか・・・。

20年の記念館での展覧会タイトルは『山口蓬春と古陶磁』、副題に”日本画家が愛した静謐な美の世界”とあるように、

蓬春は古陶磁を愛したことで知られる日本画家で、自ら蒐集した器をモチーフに多くの作品を残している。

ところで この手の萬暦五彩作品を”萬暦赤絵ばんれきあかえ”と呼ぶのだが、

古くは江戸期の茶人たちに、大正・昭和には多くの文化人に愛されてきた。

文学では 志賀直哉が作品『萬暦赤絵』に、欲すれど高価すぎて入手出来ないその心情を綴っているし、

絵画の世界では 洋画家・梅原龍三郎が愛蔵して作品『萬暦蹲に薔薇』など瓶にバラを挿した静物画を数々描いた。

そんな 梅原旧蔵の萬暦赤絵瓶も嘗てここ龍泉堂を介して個人所蔵となっている。

さて、今回出展された山口蓬春の萬暦赤絵瓶は、・・・果たして如何なる処に落ち着いたのであろうか。

2016.10.31


先日、鎌倉のギャラリーで作陶展を開催していた友人から、久しぶりに会って飲みませんか と誘われて電車で鎌倉へ出掛けた。

車でなく行くのは実に10何年ぶりのこと、それだったら約束の夕刻までの時間を旅行気分でと思い立ち、

小田原から湘南電車に揺られて藤沢で下車、江ノ電に乗り換えゴトゴトと車窓を楽しんだ次第である。

そして、電車ならではの施設、つまり車でアクセス不可の今まで縁遠かった『鎌倉文学館』にも訪れることができたのだった。

由比ヶ浜駅から徒歩7分、館内を廻ってみると、しかし まぁ なんと多くの文学者がこの古都鎌倉に暮らしたことよ、

これじゃぁ「鎌倉文士」という言葉も生まれるわけだ、と納得。

で、文学館での楽しみは 直筆原稿・手紙・愛用品、ワープロやメールの無かった時代の宝もの。

ふふふ、あの 珠玉の作品が こんな悪筆で書かれていたなんて、と思ったり。

それに、だいたいの作家の原稿は 訂正訂正を繰り返してグチャグチャ、

でも 読んでみると書き進めることにより前文を直すこととなった思考の経緯が見えてきたり、成程成程の連続。

あぁ こういう万年筆を愛用したのか・・・、ふぅん そんな交流があったのか・・、などなど 楽しい時を過ごさせてもらった。

ところで、この文学館は 旧前田侯爵家の鎌倉別邸だそうで、テラスから相模湾を望む素敵な洋館、

芝生の前庭を挟んでバラ園が設けられ、今が ちょうど秋バラの真っ盛りなのであった。

さて、夕暮れも間近、文学館から西に5分ほど歩いて「甘縄神明神社」に、

鎌倉最古と伝えられる この神社の創建は和銅3年(710)、急な石段を登って参拝、

振り返れば 由比ヶ浜の海が 黒く一筋 横たわっている。

もう そろそろ時間だな、と 長谷駅へ急ぎ、また 江ノ電に乗った。

2016.10.15


今、南青山の「根津美術館」で開催中の展覧会は『中国陶磁勉強会』という ちょっと変わったタイトル、

展覧会場がそのまま勉強会の会場であることを意味するそうだ。

そしてさらに特別講座が会期中5回設けられていて、その名も又々「中国陶磁と漆器を楽しく勉強する会」。

うわぁ~、こう勉強 勉強とダブルで攻められると、子供のころから勉強という言葉に拒否反応がある僕は2,3歩後ずさるわけである。

が、頂いた案内状をよく見ると、講師の研究者たちが錚々たる顔ぶれの上、

いつもは130名定員の根津美術館講堂で各回40名の少人数講座という。

むぅぅ、こう来ましたか、あぁ 勉強はキライなどとも言っていられないかぁ。 んなことで、受講して参りました。

講座科目は『東大構内から出土したやきもの』。

東京大学本郷キャンパスは江戸時代の加賀藩前田家など大名藩邸の跡地に所在。

江戸はとにかく火災が多く、”八百屋お七”の題材になったような大火も度々発生、

被災し破損した陶磁器は一括廃棄処分され土中に眠った、そう 加賀百万石の茶道具などのお宝が。

「東京大学埋蔵文化財調査室」では 1984年から発掘調査を開始、現在も継続して行われている。

30年を超す調査、その出土品のなかでも重要な資料を今回の講座で公開、

それを参加者全員が手に取って細部を確認しながらの勉強会、あぁ・・・幸せ~~~。

そしてそして、なんとなんと、その中に、あの 鳳凰耳花入タイプ青磁瓶の首部も有ったのでございます。

さすが 前田家、持ってたんだぁ・・・。

割れた断面から 釉薬の厚さ、素地の様子などなど、ん~、見れちゃいました。

2016.10.1


            

この前の続きとなるが、今回のソウル行では 浅川巧に因む もう一つの体験をした。

それは 「ソルロンタン」、韓国伝統の食べものである。

2年ほど前に読んだ 『回想の浅川兄弟』 という、 巧と兄 伯教の友人や親族が 2人の没後に新聞や雑誌に書いた追悼文を一冊にした本の中の、

当時 巧を中心に集まっていた朝鮮工芸好き仲間の一人、京城帝国大学教授だった 安部能成の回想文「或る日の晩餐」が ずっと心に残っていたのだ。

1934年、巧の3周忌に書かれた その文章は こう始まる、

「この次には ソルロンタンを食って・・・(中略)・・・といふことを或時の会合に巧君が提議した、・・・」

巧の好きな この料理は韓国の庶民の味、だが 日本人には かなり勇気が必要なものなのだった。

後日、皆して ソルロンタンの店へ行く、

「・・・先ず店へはひると風呂桶位の鉄釜がぐらぐらと白い液を煮立たして居る。その中に牛の頭の毛皮の残ったまゝのが浮んで居るグロテスクな光景が、・・・」

と。 しかし、食すると 見た目とは裏腹に、中々 旨い、

「牛の持って居る色々な養分は悉く液中に溶けこんで・・・(中略)・・・如何にも純粋に滋味そのものを吸う様な気がする。」

と、評している。

ふうん、そうかぁ、巧の愛した ソルロンタン、一度 賞味したいものだ、

それに ソルロンタンは 漢字では 『雪濃湯』 と書き、優雅でさえあるのだ。

そんなわけで、今回、浅川巧たちが暮らした頃から続く、創業1902年という超老舗 『イムン・ソルロンタン 里門雪濃湯 へ行った。

牛まるまる一頭の肉と骨を1日中煮込んだ濃厚な白濁スープに米粒と素麺、牛の各部位数片が入っていて、味付けは塩だけ。

写真右の丼鉢がそれだ、薬味の葱を入れて 湯気を吹き吹き、真鍮の匙ですくった。 旨い。

写真左の角皿は、牛頭の皮と頭骨の間の肉で コラーゲン満載だ。 コチュジャンを たっぷり塗って頬張る。

え?  浅川巧の姿が 脳裏を掠めた一瞬であった。

2016.9.15


2泊3日の駆け足渡航で ソウルに行ってきた。

1番の目的は当然、前回お伝えした 中央博の特別展『新安沖海底沈没船から発見された遺物』。

だが、今まで何度もソウルを訪れながら、いつも郊外、地方の古窯址を巡るばかりで市内は博物館、美術館、古美術店ぐらい。

気になる所は少なからずあれど、次回に きっと、と先送りしてきたのだが、今回は そういう所に足を向けるチャンスでもあった。

その一つが ”浅川 巧 ”の お墓参りである。

浅川 巧 のことは この 窯だより に3度ほど書いているが、ちょっと説明すると、

大正3年(1914)、23歳の時、朝鮮総督府の痛んだ山々を緑化する林業技手として朝鮮に渡る。

そこで 当時、朝鮮においても 顧みることなく、忘れられた存在となっていた”李朝工芸”の美しさと出会い、収集、研究に邁進。

柳 宗悦 らと 「朝鮮民族美術館」設立に奔走しながら、李朝工芸の本の執筆、その上に 林業技手として山野での情熱的活動。

と、ついには 無理に無理を重ねたことが祟り、1931年4月2日、急性肺炎により40歳の若さで他界した。

豪雨の中の葬儀では 追悼する朝鮮の人々が 競って巧の棺を担いだと伝えられる。

浅川 巧 の生涯は、日韓共同制作により映画化、『道‐白磁の人』は2012年6月に日韓同時公開され好評を博した。

やっと かなった 墓参り。

「忘憂里マンウリ公園墓地」の入口から のんびり30分ほど山を登った所に在って、

木々に カササギが遊び、漢江を遥かに見下ろす静かな墓所であった。

そして、傍らの碑には ハングル文字で、こう 刻まれていた。

『 朝鮮の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる 』

2016.9.5 



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