窯だより バックナンバー 2009年 5〜8月


お盆休みは 何処へも行かなかった。 このところ、制作漬けの毎日である。

料理屋さんへの土鍋と、お茶の先生からの注文のお茶道具の 納期が迫ってるし、

10月の松屋銀座の個展と もうひとつ、横須賀の”カスヤの森 現代美術館”での展示もかさなって、

そっちは10月から2ヶ月間の予定で、それが終わると 年を越して すぐ茅ヶ崎の個展。 

制作は同時進行だ。  はにゃ〜、朝から晩まで 仕事場で 唸っているのである。

ロクロの手を止め ふり返ると、レオ君がソファーでスヤスヤ。 

あぁ、ネコは いいなぁ〜。  そうそう こいつ、きのうが 8歳の誕生日。

2月22日の”ネコの日”と 8月16日の お誕生日は、特別に 缶詰のゴハンなのだ。

だから もう ごきげん ごきげん、  しあわせ一杯のレオ君であります。

ジャスコの 「仔猫 もらってください」の張り紙 が縁で、うちに来て8年。 はやいものだ。

ねこの8歳は 人の50歳くらいだそうで、まぁ おたがい オッサンなのである。

2009.8.17.


         

上野・東京国立博物館の 「染付」 展に行った、平成館・特別室では 久々の陶磁展である。

さぞ 気合いが入ってるだろうと 思っていたのだが、意外や その内容は 名品が ずらりではなく、

染付磁器の発生から 他国への拡がり 変様を 時間軸に沿わせて展示した、言わば 教科書的 展覧会といった感じだった。

日常 私たちの生活の中で あまりに当りまえに存在する、染付。

白磁の素地に  コバルトで青色の絵が描かれたそれらの器は、中国では青花、欧米ではブルー・アンド・ホワイト、

日本では きものの藍染を思わせることから 染付と呼ばれたわけで、

14世紀に中国の景徳鎮で 彗星のごとく現れて 短期間の間に飛躍的に発展し、

15世紀にベトナム、朝鮮、 17世紀には 日本にまで技術が伝わった。

そうした事が じつに 分かりやすく見て取れ、ん〜 さすが 東博さん。

そして 会期は、ズバリ 夏休み。 子供たちの 自由研究の宿題にも対応しようと、

「ものしり染付ワークシート」なる 模様さがしの ゲーム感覚で学べるものも用意、

”ご家族 みなさんで ご来館を”と、 こりゃぁ なかなか やるわい。

見回せば、 なるほど こども連れが多いぞ。

・ ・ が、 しかしなぁ、 染付は やっぱり ガキどもの心を  掴みきれぬようで、

展示の半分も行かぬうちに 仏頂面になってしまった子供らの眼は、完全に 淀んでいる。

笑いを堪えながら 会場をあとにしたが、

外の公園の噴水まえで行われていた 3メートルもある 巨大シャボン玉のパフォーマンス、

そこに群がる ヤツらの眼は らんらんとして うつくしく光っていた。

やっぱ しょうがないよ、東博さん。

2009.8.1.


きのう 関東地方の 梅雨が明けた。

夏だ。 これから当分、寝苦しい夜を迎えることになる。

ぼくは ついぞ クーラーのついた家に 住んだことがない。

 

思ってみれば、これまで55回の夏、3千回の暑い夜を 眠ったわけだ。

しかし 55年、2万回の夜に、ねむりに落ちる刹那が思い浮かぶのは、

どうしてだろうか 夏の夜ばかりだ。

小さいころ、金太郎さんの腹かけをして うける、母の団扇の やさしい風。

近所で 誰かが遊ぶ、花火の けむりのにおい。

蚊帳のうえの たるみに投げ込んだ、ピンポン玉の 白い かすかな動き。

麻の かおりの みどりの空間に、消え入る 自分。 そして もうすぐ、夢のなか。

 

仕事場から下りる 今年 はじめの 夏の浅い夕暮れに、そんなことを思った。

2009.7.15.


「白磁の人」江宮隆之・河出文庫を 読んだ。

大正から昭和にかけて 韓国の 李朝白磁をはじめ 李朝の工芸を 調査 研究 収集し、

柳宗悦らの 民芸運動の源流となった 浅川兄弟、その弟の 淺川 巧の 短かった人生を綴った小説である。

今も 日韓関係史上に なお影をおとす 当時の 日韓併合という植民地政策下の朝鮮へ

大正3年 林業技手として23歳で渡った浅川巧は、朝鮮の風土・文化に惹かれ その民族の美を知る。

そして 柳とともに 現地朝鮮においてさえも 歴史の流れのなか忘れ去られていた

美しき 李朝工芸を陳列する 「朝鮮民族美術館」 を建設するため 奔走するのだった。

朝鮮を愛し 自ら ハングルを話し チョゴリを着て 共に生活し、朝鮮の人に愛された 巧は、

林業の仕事と 工芸の研究、そして 軍部とのまさつのなか 病に倒れ、昭和6年 41歳で夭逝した。

村の人々により 手厚く葬られた 巧の墓は、今も ソウルの郊外の 小高い丘にあって 韓国の人々によって守られている。

傍らの碑には ハングルで こう記される。

「韓国が好きで、韓国人を愛し、韓国の山と民芸に 身を捧げた日本人、ここに 韓国の土と なれり」

 

僕が この道に入る きっかけとなった、駒場の日本民芸館の 李朝の徳利、

ひょっとすると 浅川 巧 の眼で選ばれたものかも しれない。

「白磁の人」は 来年の映画化が決定、出身地の山梨県・高根町で制作委員会が 活動中です。

2009.7.1.


仕事の手を休め 外でひと息いれていると、コメツキムシがいた。

裏返しておくと胸をバネにして パチッとはね 体を表にする あの虫だ。

フ、フ、どれ ・ ・ と 裏に ・ ・ 。  パチッ 、 30センチも 飛び跳ねた。  おぉ〜ッ!

そういや 昔、山陰 萩での修業時代、やはり休憩時間に 兄弟子と外でいっぷくしながら コメツキムシで遊んだことあったなぁ。

ロクロ場に沿った細い道に腰掛けて ・ ・、 こうして パチッ、 どれ もう一度 ・ ・ パチッ。

そしたら 自転車で田んぼに向かう途中の 近所のジッちゃんが わざわざ止まって のぞき込み

「 はぁー、 コメツキかねぇー、 ようけハネよりますのー、ホッ ホッ ホッ 」

 と 元気に笑って、 またペダルこいで行ったっけ、  見送る 荷台には 鎌と鍬 が しばってあってね。

道のむこうは 田んぼ、 そして 水のつめたい きれいな小川が流れていて、 あとは また ずっと 田んぼだ。

遠くに 古い 納屋がひとつ見えて、土かべに打ちつけられた 大っきなキンチョールのブリキ カンバンが 半分 錆びていたっけ。

小川には セリが いっぱい 青々と生えててさ、昼飯につくる 出前一丁に入れると、 うまかったなぁ ・ ・ 。

コメツキムシの ジャンプに 30年前の情景が浮かんだ

2009.6.14.


         

おもしろい展覧会を 見てきました、 町田市立博物館の「絵皿は語る」展 (6/28まで)です。

ポスターを見ると よく在りそうな 絵皿展の感じなのですが、よくよく見ると 小さな字で

”陶磁器で楽しむ 明治・大正・昭和の 世相と風俗” と書いてあります。 写真の図柄に目をやれば、 ふ〜む これは ・ ・ 。

この手の絵皿は つまり あまり美術館・博物館の展覧会向きじゃないんです、年代的にも。

こういう皿を見掛けるのは骨董店、それも日本橋や青山あたりの高級骨董店・古美術商でもなく、

いわゆる 町の骨董屋さん・古物商って お店です。

 そして その上に同じく小さく  ”皿多一郎コレクション”!? え?コレクション?

こんなもの 集めている人がいるの? 名前が 皿多一郎?? へんなの〜!!ぜったい変〜!

ん〜、いや、でも、しかし、見たら なかなか楽しいんです。

明治・大正も良かったけど、昭和の それも30年代ともなると、モチーフに サザエさん!東京タワー!ダッコちゃん!!

なっつかしーぃ、あッーっ、ちっちゃいとき 僕が使ってた「人工衛星文子ども茶碗」が あるーッ!!

「 ぼくは  ほかにも 月光仮面の ちゃわんも 持ってたぞーッ!」 と、鼻の穴が拡がったのでした。

しっかし こういったコレクターもびっくりだけど、こういう企画をする博物館にも ビックリですよぉ。

ちなみに 「皿多一郎」とは ペンネームで 「皿をいっぱい集めた一途な男」 という意味だそうです、 やっぱ へんなやつ。

あー、あの 人工衛星の おちゃわん、まだ おばあちゃんちの どっかにあるかな〜。

2009.5.29.


春は ここ数年 なにかしら上洛の用が出来て、今年も 日本陶芸展・大阪展に合わせ 4日ほど京都に遊んだ。

寺社古跡には 修学旅行の中高生たちに占領される 前と後、つまり彼らが動きだす前と帰宿に向かう時間帯の朝夕に歩き、

  日中は もっぱら美術館めぐりだ。 館蔵品での企画がほとんどで 他のところに巡回しない美術館は 旅の楽しみである。

今回も そんな中のひとつ、上賀茂神社に程近い ”高麗美術館”に行った。

故 鄭詔文 氏の蒐集した 高麗・李朝時代を中心とする美術工芸品を展示する、1988年に開館した美術館だ。

この度の企画展は 「きらめく朝鮮の技 螺鈿漆器と象嵌青磁 」、そのふたつの工芸の関連性に

以前より 感心をもつ僕には うれしい展覧会で、この館では 18年ぶりの企画だそうである。

ひととおり ゆっくり鑑賞して 帰り際、展示品の時間軸の差に いまひとつ しっくりこないものがあり 

館のひとに ちょっと聞いてみた。すると 道路を間に挟む研究所から わざわざ研究員が 仕事の手を休め来て下さり

僕の 取るに足らない質問に とてもていねいに説明していただけた。 こういうことは 本当にうれしい。

いろいろ話していたら、この かわいらしい研究者は なんと 鄭氏の 孫娘さん、 ありゃりゃ〜 と つい雑談まで。

そしたら 鄭氏の娘さん、つまり この方の お母様が 河原町今出川で李朝喫茶をされていて、

その店では 李朝時代の家具や工芸品が じっさいに使われていると。 うひゃッ!!

その日は 夏を思わせる暑い日で、 僕は さっそく その足で 李朝喫茶 李青 に向かったのだ。

草花に埋もれて 小さく 「李青」 の 文字、ガラス戸を開け お店の中に入るや 空気が 変わった。 いにしえ の 感。

時代のついた家具の上には 形のいい 白磁の壺、李朝絵画の前の 黒釉扁瓶には 花がいけてある。

そして 六弦琴 ” コムンゴ”の 伽耶の調べ 、高い塀に まるく囲まれた庭は 草が茂り 、

風 が コムンゴの音 と供に 店内を 舞った。

僕は 「水晶菓」 スジョンガ という名の、  シナモンと蜂蜜で さわやかに味つけされた

澄んで淡いワイン色の液中に 干し柿 と 松の実 が浮く、冷たくて美味しいものを おねがいした。

2009.5.17.


ゴールデン・ウィークは 仕事場の片づけをしながら、ほとんど 本を読んですごした。

どうせ 何処に行ったて混んでるだろうし、新緑を求めるのなら くるりと見回せば自足しているのが我が家である。

それに なんたって この本「支那風土記」は 長〜い月日、探していた本なのだ。

僕の 灰釉から変異した”青磁”が現れる 7年まえ、それまで なにげなく見ていた青磁は 特別のものと変わった。

そして この青い器の出生が 深い謎の底に沈んでいることを知る。  現在に おいてさえも。

だが、なんと 昭和のはじめ、その奥底を 覗き見た男がいた。

日本人、米内山庸夫、 中国 浙江省 杭州領事、

中国古陶磁に つよい感心をよせていた彼は、4年間の在勤中 窯跡さがしに 没頭する。

過去の文献と 陶片を 手がかりに 執拗なまでの調査の日々、そして ついに 謎の窯跡に辿りつくまでを綴る。

本の序文に 「思へば、支那ほど不思議な世界はあらず、美しと見れば無限の美しさをそなへ、

醜しと見れば底知れぬ醜さを持つ。・・・」 と書きながら、心より支那を愛した 彼の文章は すばらしい。

昭和14年発行、定価3円20銭、「支那風土記」。

7年間、古書店・図書館・ネット検索と あらゆる手だてにも 掛からなかった この本、

やっとのことで 知り合いの陶磁研究者の手にあることを。  お借りすることができた。

あー、源氏物語にも 秘色 の名で記される 越州窯青磁の 窯跡に立つ くだり、

「何と云ふ美しい湖だ。山静かにして太古の如く、桃色のツツジが花の盛りを見せて一面に山を彩り、・・・」

まさに いまの季節だ、まさに今・・、   昭和 6年の春だった。

2009.5.7


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